生きています

今はいつだろう.

帰路につくタクシーの後部座席で考える.
街で座って携帯を弄る.声をかけてきた男とどこかへ消えて,財布にお金が増える.これは10代の頃と変わらない風景.

私は今27歳.
時間はあのころで止まったまま.でもあまり覚えていない.
記録はある.私がなにをしていたか,何をされていたか.私は知ることができる.
しかし記憶はない.

どうせ同じことの繰り返しだ.
今も昔も何も変わらない.今なのか昔なのか,それすらもわからない.

寂しかったからか.
あるいはお金が必要だったからか.
その両方か.

今も昔と変わらず薬を流し込む.
さっき口にしていた男の精液と同じだ,苦い.

こんにちは

お久しぶりですね。
ここを見ている人はいるのでしょうか。

 

最近は私は私がよくわかりません。
いえ、私がではない。私をふくめた全てのことがわかりません。
むしろわかっている人などいるのでしょうか。私にはわかりません。

 

生きるにはお金が要ります。それは友達というものと付き合うにも必要です。
お金がなくても付き合いのあるのが友達だっていう夢を見ていらっしゃる方もいるかと思いますが、でもお金を持たずに友達と遊んでみてください。我々はいい年の大人です。なにをしますか?
茶店にいくくらいのお金はあるだろう?それはお金がないとはいいません。
友達づきあいとはどれだけお金を持っているかなのです。

 

それはほかの物事においてもです。
生きるにはお金がいつだって必要なんです。当たり前ですよね。
だから私は今生かされている。

 

「私を生かしたければ私の生を担保してみせろ」

 

私の口癖です。そしてこれを実際に実行しているのが私の彼女です。
なるほど、担保すれば私は生かされるわけですから生きるでしょう。
しかし同時にそこには私が彼女に迷惑をかけているという事実が存在することを許してしまいます。
私は他人に多大な迷惑をかけてまで生きるべき人間でしょうか?あるいは私はそれを自信に許容するような人間でしょうか?
尤も、それはここで問うても意味はありません。私が私のなかにだけ持つ答えですから。

 

ところで、2011年ごろからでしょうか。新小岩駅4番ホームでの自殺が増えましたね。通過するNEXへの飛び込み。
最初の女性は遺体がキオスクまで飛んで、ホーム上の旅客にも被害が出たとか。事故を目にしてしまった方はお気の毒ですね。
やがてホームドアが設置されました。しかしそれはハーフハイトのホームドアでした。
意図しない転落などによる接触事故は防げると思いますが、自殺目的での飛び込みはどれくらい防げるのでしょうか。
ホームドアの高さはおおよそ1300mmくらいでしょうか?私の身長であれば腕の力だけで飛び越えることは可能ですね。
そしてホーム端からの飛び込みであれば、遺体がホーム上に飛んで二次被害を生む可能性は低いでしょう。
あくまで、想像の話です。あくまでね。

 

話をもどしましょう。
生きるためにはお金が要ります。もし、私が他人を食い物にして生きることを良しとしない性格だったら、はたして私はどうするでしょうか。そして、私は今まで幾度か自殺未遂をしている身です。さて、さて。

 

「あの人 この人に 支えられ 今を 生かされ 生きている」

 

そうですね、そうでしょう。
だからこそ、です。おそらく自殺を考えないようなマジョリティたる健常者はこの言葉が含む意味の多様性をまったく理解していないんでしょう。自分たちが意図した意味しか頭にないと思います。
日本語ってむずかしいですね。

 

では皆さん、良き倫理を。

ありがとう。

こんにちは

おはようございます.まだ生きてます.

 

今日も眠れないのでエチゾラムを5mg経口で投与した.医者の処方を無視した用法だが仕方がない.薬漬け?そうだね,でも死ぬよりはマシだろう?

 

あの子もあの人も私を置いていった.
18の夏,いやいつだったか.記憶の時系列がおかしいがしばらく昔なのは間違いはない.彼はTwitterで近況を報告し,自殺の宣言とその理由を述べた.私は止めようとしたが何もできなかった.車もない都下住みの私にできることはなにもかなったのだ.仕方ない,そう仕方ないんだ.しかし私は彼を救えなかった.それは事実.
どこで亡くなったのか,住んでいたアパートはどこなのか,まったくわからなかった.あらゆる情報はうまく隠蔽されていた.

やがて何年が過ぎただろうか,初めて散骨した場所に追悼目的で訪れることができた.彼は何を思って飛び降りたのだろうか.

 

彼女は私の友達だった.元から躁鬱と思しき気はあったが具体的にどのような疾患を抱えてるのかは結局聞かずじまいだった.それでいいんだ.私は彼女の疾患よりも彼女に興味があった.そして大きな予兆もなく私の前から姿を消した.あとから人づてにきいた,亡くなったと.自殺だった.
彼女と最後に言葉を交わしたのは私だった.一緒に遊ぼう,アメ横で万年筆見に行こう,そんな約束をしたのに忘れてしまったのか.私はまだここにいるよ.いつでもいいんだよ,待ってるから.でももうそんなに長くは待てないかもしれない.ごめんね.

 

2017年の夏,私はJR山手線で職場に向かっていた.中年男性とシャワーを浴び,少し特殊なマッサージを施してリフレッシュさせる,そんな仕事だ.
あのとき線路に呼ばれていたのにまだ私はここにいる.いつだって遅いなんてことはないんだよ.足元でみんなが飛び込んでこいって囁いてる.飛び込めたらどんなに楽だろう.でもできるわけない.私には勇気がないんだ.死にたいくせに死にたくない.そんなにこの生き地獄が心地いいのだろうか.私を呼ぶ声が頭の中でリフレインするJR新宿山手線ホーム.そうだよね,そう.

 

ところで薬は毒にもなるんですよ.薬の作用機序を知るとはそういうことです.
理学系医薬徒でよかった,でも人を救うために自分を使いたかった.

私がMDになるのと私が私を終わらせるの,どちらが早いか賭けませんか.

 

いつだってそうだった.
みんなそうだったんでしょう?私の知らないところでそういう思いをしてきたんでしょう?きっと私よりつらい思いをしてると思う.だから一緒に終わらせよう.

 

今しばらく,今しばらくは.

近況

もう何ヶ月も自殺を試みていない。ある意味であの頃の私はすでに死んでいるのだ。

自殺既遂おめでとう。

 

幸せとはなんなのか、その意味は今の私にもわかっていない。だがそんなもの今更考える必要があるのだろうか。

何事も在るがままに在るだけなのだから。1日に三度流し込む安定剤が幸せ、脈打つ客のペニスを感じ取ることが幸せ、池袋の安いホテルに呼び出されて店のバックに毛が生えた程度の金で抱かれることが幸せ。つまるところ頼るものがあってかつ何かに必要とされていればそれが幸せなのだ。なんと明快なことか。反吐がでる。

でもそれも過去の話。今は彼女が無事でそばにいてくれさえすれば私は幸せなのかもしれない。

 

この恋に失敗した時、私はどうするのだろうか。

自殺を宣言した文章は私のクラウド上に保管されている。もう公開することはないが、実行しないとも言っていない。

彼女は言った、ヘラって自殺なんてするな、と。君がそばにいてくれる間はそんなことしないよ。

でも君がいなくなってしまえばそれは君の与り知らぬところだろう。その時どうするかなんて私にも分からない。

でも今は死ぬ気は無いし、幸い生きる気力はある。まだ前を向いていられる。限界までは。

 

さて、じゃあ仕事に戻ろうか。

私は幸せ

私は幸せだ。幸せなはずだった。

私はこれを幸せと規定する。

 

腕を滴る血を見て私は何を思うのだろうか。

なぜか苦しい胸の内をどうしてくれようか。

効きもしない安定剤を流し込んで、代わりに溢れてくるこの涙は幸せな証。

 

世の中には困ってる人がたくさんいるんだから。

中流階級の私は甘えたことをいってはいけない。落ちぶれようが。

苦しんではいけないし泣いてもいけない。

両親のあいのもと育った子なのだから悩みなんてないし健やかに育っているはずだ。

 

客のペニスを咥えこんで自己の存在を肯定し、彼氏のペニスを咥えて愛を感じる。

これほど幸せに満ちた人間はいない。私は幸せなはずだ。

 

では私はだれなんだ?

無題

今日また首を吊った。
苦しい、反射的に咳き込んでうまく締まらない。失敗した。
もう一度。ドアノブからケーブルが外れる、失敗。

どうしようもないのでとりあえずリスパダールレボトミンを飲んだ。
これで少しは落ち着くかな...なんて思いながら私はPCのディスプレイを眺める。

数時間前まで客を悦ばせていた口でタバコを咥える。火をつける。
どうして私はまだ生きているんだろう。なぜ生きねばならないんだろう。

久方ぶりの自殺未遂

2017年8月14日、首吊りをした。どうしようもなく死にたかったからで、なぜ死にたかったのかは覚えていない。
使っていないVGAケーブルを結び、ドアノブに掛けた。...これで成功すれば私はもう生きなくて済む。できた輪に首を通し、体重を掛ける。苦しい。やがて意識が遠のく感覚を覚えるが、苦しいばかりでなかなか飛ばない。失敗だ。
結局この日は未遂に終わってしまった。まだ私は生きなければならないのか。

私の恋人が言った、「死ぬのは難しい」、その通りだ。生きるのは辛く、死ぬのは難しい。世界は残酷だ。